モノの価値を測る基準を自分自身の中に持っていないということだから。

これは付け焼き刃で目先の知識を仕入れた位じゃどうにもできない。
知識や情報を咀嚼して取り込む「考える力」が衰えていると。
ネットが普及してから、情報の量も質もケタ違いに増え、流れも速くなり、自分の知りたい全てを精査するのは不可能。

もちろん知りたいことに対して、ある程度最低限の情報は必要。
しかしある段階を過ぎると、情報量と考える力はあまり関係なくなってくる。
要は、いくら物知りさんでも自分の頭で考えられない人も居るということ。
わたしも含め多くの人の通過点「情報の奴隷」というやつ。

通過できる人も居るし、皆と違うのが怖くて留まり続ける人も居る。そのほうがラクだから。
穴だらけの薄氷の上を皆で連なって目隠しで歩いているようなもの。でも数の正義。中に居る限りはその怖さに気付かない。
「普通・常識の奴隷」ともいえるわな。

わたしの場合、昔2年間やった食のボランティア界隈でこういうケースを大量に見てきた。
でもこういう無自覚な同調圧力のおかげで自分の本当に望む道に進む原動力を得られたんだから、決して「悪い」ことでもなかった。むしろ激烈さんきゅーと思ってる。

金額でしか価値を測れないというと、食品業界もそうだよね。
消費者様が安さ便利さばかり求め続けた結果がコレだという自覚無しに騒ぎ立てる偽装糾弾や農薬添加物氏ね氏ね系の主張ほど滑稽なものは無い。

そして考える力が弱いというのは全てに波及する。
具体例を出そう。

母が昨夏難病宣告され、その性質上、延命措置を希望しない旨の意思表示カードを同意の元で作り本人に携帯させ、かかりつけ医・病院にも伝えた。

後に意識不明でその病院に入院した際、回復の見込まれない状況で経管栄養を勧めてきた。
その際の医師の説明が、何の知識も無ければきっと同意するだろうなーという言い方。

もちろん拒否したが。

まあ医療従事者はお国や製薬会社の作ったガイドラインに従うよう教育を受けているのだから、現場の人々に罪は無い。


2014年から相続税法が変わり、基礎控除が4割減った。ちょっと地価の高い場所に家があり預貯金や相続人の数によっては、全然金持ちでもない一般庶民が課税対象になる時代。

2013年に養父の1次相続、今年2月22日に発生した母の2次相続。
1度目でかなり色んな意味で勉強したおかげで、今回はかなり賢い選択が出来た。

相続の場合は食や医療に比べてダイレクトだよ。
自ら調べ考え選び取る姿勢の無い人はぼったくられる一方。

「水と安全はタダ」と言われたのは遥か遠い昔のこと。
考え選び取る力が衰えた人が多いのは、なーんも考えず、みーんな同じで安泰だった時代の名残り。

普段から色々考えて、うっかり「みんなと同じ教の信者」に無防備に漏らして神経質扱いされたことはムカついたけど、
今は自分が心地好い環境に棲み替えることが出来たからなーんも問題ない。

安全は、教えてもらうのを口開けて待ってるものじゃなく、自ら望んで選ぶもの。

それが自分の人生に責任を持つということだと、わたしは考えている。

by yuusfuru | 2017-09-27 00:33 | 考えていること | Comments(0)

それ自体、幻想のようなものだけど。
そもそもわかり合える合えないって何よ?ってのは置いといて。
わかり合えない人との出会いのほうが、
自分を成長させるキッカケになることが多い。
最初は良くても後からズレてきて結局離れたのも含めて。

わたしの場合はね。

この世界で、動いていないものは無い。
水は流れが止まると淀む。

人の気持ちも動く。お互いに、ね。

その流れに逆らおうとすると、
苦しい。悲しい。怒り。許せん。
わかってほしい。わかり合えるはずだ。
だってあの時はあんなに。。。

途中から噛み合わなくなった時のほうがキツいかもね。

うん。
あの時は、あの時。
わたしに必要だったから出会った。

もう、あの時とは違うんだ。
お互いの道を歩いていこう。
歯ぎしりするほどの苦悩を経て
そう吹っ切れた瞬間の、何とも言えない清々しさ。

移ろい流れ動いていく形無いものを
自分の望みどおりに動かそうと散々足掻き倒す。

それに気付くまで、形を変え、相手を変え、
何度でも何度でも降りかかる。

「そのパターン」が来なくなった、
「あれ?パターン変わった?」って時が、
「腑に落とせた」「ゲームの1段階をクリアできた」
ってことかなと思う。

清も濁も、酸いも甘いも、光も影も
両極入り混じった美しいマーブル模様も。
どれが欠けても成立しないのよ。

気に入った、扱いやすいキャラばかりのゲームがあるとすれば、
たぶん、てかぜったい超絶つまらんよね。

そういう意味で、わたし毎日オモロい。飽きないわあ。
自分の信条と違うことや人ほど。分析しててホント飽きないわ。

わたしの場合、それが自分の仕事に直接活かせる
(=占いやセッションの読み解き)。

一石何鳥よ❓❗️
ちょーラッキーじゃーん
なーんて思ったりなんかして。



by yuusfuru | 2017-09-25 14:52 | 考えていること | Comments(0)

余程のパワーブロガーでもない限り、感情は一切入れないほうが得策。それだけ。

わたしのFacebookには、変なコメントは来ない。
2014年末に始めて以来、初期に見知らぬおじいさんから1件。今年の5月半ばに、かつての「仲間」から1件。

キャラ的なものもあるだろう。

Facebookの投稿をよく読んでくれている友人や知人には
「怒っても冷静に理詰めで淡々と追い詰めそう」
とか
「真綿で首をジワジワ締め上げるような」
とか
「子どもに怒鳴ってる姿を想像できない」
などと口々に言われる。

先にFacebookで知り合った方と後からお会いして話した時、
「意外と柔らかい雰囲気で話しやすいですね」
と驚かれた。

自分で言うのもナンだが、わたしの文章にはそういう雰囲気が滲み出ていると思う。
一見ぶっちゃけているように見えるらしいが、これでもいちおう線引きは厳密にしている。
ガチでヤバいぶっちゃけはリアルで気心知れた人が居る場でしか言わない(微妙な人が多少混じっていても大概お構いなしだが)。
ネットに出すものは全て回覧板に引っ付け近所中に晒しても何ら問題無い程度の内容。

変なコメント入れる人は感情に流されやすい傾向にある。
なので感情論は極力使わず、やむなく使う場合も込めどころには細心の注意を払う。
反論の気力も失せるほどの理詰め。
極端な落差を意識的に演出=常軌を逸した振り切りっぷり。

なので自分的歴代変なコメントも、さすがにそんな感情剥き出しではなかった。

なので即、冷静な対処ができた。
そういう人は感情抑えると必ず筋違いになったり論理性を著しく欠くから、そこをひと突きするだけで済む。

かつての「仲間」とFacebook全公開の場で決別して以来、妙な絡まれ方することが更に減った。ネット上でも実生活でも。

元はと言えば向こうが仕掛けてきたこと。
なぜ個人メッセージではなく全公開かというと、向こうとしては「勝算」があったんだろうし、自分に正当性があると思っているからだよね。
だから内容まで公開しても別に差し支えないと思うんだな。

この件ではあと1人巻き込んで面倒な事になった上、巻き添え食った人がまた「いい人」だから理由もわかってないくせに謝られちゃってね〜。

さ、これでブログテーマ2本出来た。

*怖れは、かくも人を盲目にするもの。
「不愉快な思いをさせたなら、すみませんでした」という意味不明な謝罪。

*謝る時のポイント

近日公開。たぶん。うんたぶん。

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by yuusfuru | 2017-09-17 01:36 | 考えていること | Comments(0)

キッカケは、3日前に聴いた発酵甘酒の講座。
かさこ塾同期の美香さん主催の、めっちゃおいしい野菜寿司で有名な奥秋さんのお話をたっぷり聴いてきた。
FB記事↓
https://www.facebook.com/yuusfuru/posts/1928776830715077?pnref=story
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フルーツ入りの甘酒。
市販の、酒粕を砂糖水で溶かし酒精で発酵を止めた缶入り甘酒が不味くて飲めないわたしでもこれはおいしく飲める。てか全くの別物。

現時点での自分の方向性は、
「やみくもに避けるより、毒を排出できる身体づくりに力を入れたほうが効率がいい」
そのために大切なのが「腸」正確には「腸内細菌」。

知ったばかりの頃より今の方がずっと「身体に悪い」ものをモリモリ食べているが、健康状態は今の方が格段に良好。
平熱はここ1年で35.6℃前後から36.7℃前後へと上がった【体質関係なく、35℃台は低体温と言われ、免疫力低下や病気を招きやすいというのは万人共通】。

それはやっぱり「排出できる身体づくり」が着実にすすんでいるから。でも、みんながわたしのように基礎から全て自力で学ぶ必要は無いとも思った。理由は後半に書いた。

食習慣を変えて、体調の変化や目に見えた効果が現れるのは一定期間かかるもの。
14年前、ある方法で花粉症を治した時も、実感が出てきたのは続けて半年ほど経った時のこと。

今回もそのくらいの期間、自分の身体で「人体実験」してみれば、何も知らなくても、あまりお金をかけなくても免疫力上げられる方法を伝えられるようになるかも!

講座を聴いた直後から数日間寝かせて今日突然湧き上がってきた感覚。
講座の詳細や途中経過については今後少しずつブログに書いていこうと思っている。

ところで。ついでに。
「今までバカにしてて」な理由について。

今までのわたしの、食に関するブログ記事をお読みいただいた方々にはとっくにバレバレだとは思うが、いちおう白状しておく。

食品偽装などが大々的に報じられる度に【その時だけ】大騒ぎして、アッという間にほとぼりが冷め、忘れた頃に品だけ変わって同じことの延々繰り返し。
勝手にやってろばーかばーか。と今まで思ってた。

話になる・ならない、以前の問題。その程度の知識量。中途半端なところで怖じ気づいてそれ以上知ろうとしない。
食べ物という”命”を、安全か危険かだけでしか測れない。
利便性・安価という”光”と対になる、農薬・添加物などの”闇”。
もとから不可能なイイとこ取りをしたがる人間の強欲さ・身勝手さ。その自覚すら皆無な、浅はかな発想。まるで添加物満載のインスタント食品のような思考。

そんな奴らから神経質扱いされるのが、もうたまらなく嫌だった。

だから「その土俵」からは離れ、伝えることも諦め、「人は人、自分は自分。好きにすりゃあいい」という現在の立ち位置を決めた。
もうそんな思いをしたくなかったから。

でも、もしかして違うかもよ?
マクロビ歴22年の講師による、発酵甘酒講座を受けて、急遽そんな考えが湧き上がってきた。

食べ物に対して、これは安全とか危険とか、そういう尺度から論じると必ずアホくさい論争が生まれる。

でもその人は、全く違う尺度を持っていた。誰も何も否定しない。争いにならない。それほど説得力があるのは実体験と経験の積み重ねから導き出した、その人だけの答えだから。考え方自体が「発酵」しているように、わたしには感じられた。

そしてこれは、わたしが提供している「ブライトセッション」にも通じるものがある。

これを考案した方は、とんでもなく複雑で難解で、費用も高額になる手法を学んだ上でそのエッセンスを抽出し、簡単で効果の高い手法を編み出した。
その方が言っていた。
「わたしには必要な学びだったけど、それが誰もが必要なことだとは思わない」

今回の講座がキッカケで、それと同じかもしれないことに気がついた。

色んな段階を経てきた。段階ごとに積み重ねた知識を実践してきた。
花粉症が治ったり、10ヶ月でマイナス13kg、体脂肪率41→31%のダイエットに成功したり。
人体実験で、”自分だけに適用していればいい正解”をたくさん見つけてきた。

基礎から徹底的に学んだ人の多くが陥る通過地点
「情報の奴隷・現場を知らない頭でっかち」
「知ろうとしない、自分だけの正解を選べない人々を”情弱”などと内心蔑む」

わたしにはその全てが必要不可欠な学び・経験だった。
でもみんなが知る必要なんて無かったんだ。

何も知らなくても、それほどお金をかけなくても、実践できる方法。
「エネルギー」「オーラ」など何も感じないわたしでも出来る「ブライトセッション」で、わたしはそれを教えてもらった。

昔から大好きで、ある意味莫大な時間と費用と労力をかけ続けてきた【食】。
伝える方法がわからなかったから今まで距離を取ってきた。

「ブライトセッション」
「マヤ暦」
「食」

一見バラバラに見えるかも知れないけど、わたしの中でこの3項目は一貫したテーマで繋がっている。

共通して伝えたいことは
「自分の中の自然を大切にしよう」

ぬか漬けも玄米酵母液も最近サボってたけど、いっちょ気合入れて再開すっかな。
こんなにサボりっぱなしでも体調絶好調だから再開したらそりゃあもースゴいことになるんじゃね?

ってことで【食】新たなステージに突入。
「人体実験」の経過や成果、甘酒活用法いろいろ。
ブログ上で少しずつ伝えながら形にしていきます。半年くらい経ったらリアルでも形にできたらいいな。
そんな風に考えています。

by yuusfuru | 2017-09-07 23:37 | | Comments(0)

これは中学生の頃、髪にリボンを付けていった時、クラスの男子に言われた言葉。
当時のわたしの立場は「クラスで1人位は居る、風変わりな子」。要は、集団ヒエラルキーの最底辺。

それ以来、学校では極力目立たないよう地味にし、私服ではどれだけ「素」をカバーするかに労力を注いだ。
自分が顔もスタイルも平凡だとわかっていたからこそ、工夫をするようになった。

もしもわたしが、周りから可愛いねって言われる程の容姿をしていたら、センスを磨こうなんてきっと一生思わなかった。
コンプレックスは宝の山。

ここ半年ほどでまた、選ぶ服がガラリと変わった。
綺麗な色や柄。長いスカートやワンピース。
やっぱり気分がいい。華やいで楽しくなってくる。

ちょうど ”個” としての「住む世界」がガラリと変わった頃と連動している。内面って、やっぱり見た目にあらわれるものなのね。

学校・自治会などの役割上で必要な場合を除き、デニムを履くことがなくなった。

で、思った。

今こうして周りに気兼ねなく好きな格好が出来るのは、中学生の頃の「ブスが色気づきやがって」のおかげなんじゃないかと。

顔色伺って地味にしていても、4年前の40歳までいつでも何処でも最底辺だったから、逆に怖いものが無いのよ。
むしろ好きな格好するようになってからのほうが妙な絡まれ方することが激減した。

でもたまにはいる。際立った美貌・実力・実績も無いのに目立つ格好することのリスクはわたしだって承知の上。

じゃあ何故やるかというと。
何よりもまず好きなもの身につけると気分いいし。
防御の役割も兼ねてる気がするし、上辺で判断する浅はかな人間を炙り出す絶好のツールでもあるから。なーんだいいこと尽くし。

そういう人はね、人目を気にして自分をそこそこ抑えて集団内で空気読んでうまく立ち回ることができる人。
その代わり、やりたくても出来ないことが増える。それは集団で無難にやっていくための保険料みたいなものという自覚が薄いと、わたしのように一見好きにやっている「ように見える」人が癪にさわる。

無難に立ち回ることが出来るのも立派な才能。
そういう人の中には、表面しか見ないのもいる。それで充分生きてこられたから。
自分の身を守る為に、集団内で立場の悪くなった人には手のひら返さざるを得ない。

その代わり、いざ自分が「個」として好きなことをしていきたい時に全部跳ね返ってくる。
今までそう見える人を無自覚に妬んできたから、自分が振り切ってやりきることが難しくなる。
そこで同類同士傷を舐め合い留まり続けるか、一時的に孤独になっても振り切って貫き通すかは、その人自身の問題。

だからわたしの人生には何の関係も無いこと。
そんな人のご機嫌を伺う意味などまるで無い。そう言い切れて、振り切れるのは、今までの経験のおかげ。

どんな経験でも、本当に無駄はひとつも無い。ああ清々しい。近頃ますますそう思う。

by yuusfuru | 2017-09-01 22:39 | 考えていること | Comments(2)